豊川 美陽
【在日コリアン二世 임 미양】
【韓国料理 明心館】代表
【自己紹介と創業の思い】
1978年大阪市生野区コリアンタウンで生を享けました。母のお腹にいた頃からたくさん韓国料理を食べました。近所の日本人のおばちゃんたちが、もうすぐ生まれてくる私のためにとたくさんの食べ物を母に差し入れしてくださったようです。その感謝の話を何度も聞きました。お陰様で4160gの金太郎のような女の子に仕上がって誕生しました。
幼いころの夢は【たこ焼き屋の社長】になることと記憶しています。2歳年上のお兄ちゃんの哺乳瓶も奪ってミルク2人分飲んで病気一つなく、すくすく育ちました。お兄ちゃんミルクごちそうさまでした!
母は超キャリアウーマンで毎日大忙し。生野区はコリアンタウンも有名ですが、もう一つ地場産業【ヘップサンダル製造】も有名です。ヘップサンダルとは(映画『麗しのサブリナ』で、かのオードリーヘップバーンが履いていたサンダルを模して作った、当時最先端の履き物のこと)当時、神戸から沢山の注文がきており、生野区は軽トラックで材料や仕上がった靴を大量に運ぶおっちゃんが軽トラで走り回っていました。母は売れっ子の張り子で注文が殺到しており朝から晩を超え深夜までヘップサンダルを沢山の人たちのために作り続けました。私は母と一緒にどうしても寝たくて母が仕事が終わるのを毎晩待ってました。1階の工場から2階の住居へ上がる階段で牛乳を飲みながら母の仕事をしている背中を見て育ちました。その階段は私の幼いころの最高級ベットです。母の寝ているところを見た記憶がなく、幼いながらに、『もしかしてお母ちゃんはウルトラの母なんちゃう?』とホンマに思うぐらい超人でした。子供の頃はアホなんで本気でそういうこと考えてましたね!
世界一尊敬する人です!
母が仕事ばかりで子育てに手が回らず、育ての親は3歳年上のお姉ちゃんでした。家事洗濯、ごみ捨てに幼稚園のお迎え、遠足のお弁当作り、スーパー玉出に食材や日用品まで買い出しに行き、しかも5歳くらいからはヘップシューズの仕事の手伝いもやり、学校に通い、勉強もして、更に中学生の反抗期の私がちょいとやらかして親呼び出しになった時もお姉ちゃんが母に代わって謝って私を引き取りに来てくれました。お姉ちゃん、卒業した学校にやらかした妹を迎えに来るとは、、、お姉ちゃんあの時はホンマにごめんなさい!反省しています。
当時は不思議に思いませんでしたが、今思うと、小学生低学年の女の子が小学生やりながら3人の子供の世話をしていたことに尊敬しかありません。お姉ちゃんはスーパー苦労人!いつも笑顔で愛想の良いお姉ちゃんは男子にモテモテでよく「これお姉ちゃんに渡しといて」って手紙とか男子の先輩に頼まれた記憶がめちゃくちゃあります。今は、優しくて頭が良くて仕事がめちゃくちゃできる経営者の旦那さんと子供たちに囲まれとても幸せな人生を送っています。
幼いころ兄弟4人で行く近所の【お好み焼き いち福】は最高のディナータイムでした!お姉ちゃんの言うことをちゃんと聞くとコーラを注文してくれたり、お好み焼きをもう一枚食べれたりそばロールを大にしてくれたりしました。一福のお好み焼きとそばロールとコーラ美味しかったなー!
お好み焼き焼いてるおばちゃんカッコよかったし!おばちゃんが息子さんたちに「ごはんやでー」って2階にお好み焼きとか持って行ってて。息子さんたちいつもこんな美味しいもん食べてるんやーって恨まやしかったです。
小学生になってからは、とにかくスポーツ馬鹿。一年に一度の運動会のリレーで1位になることしか考えていませんでした。毎日、近所の公園で走りまくってました!目標通り、毎年リレーのメンバーに選ばれアンカーで1位でした。運動会で大活躍した日の晩御飯は【お母ちゃんの焼肉!】ベランダで七輪で10キロくらいのお肉を兄弟4人でめちゃくちゃ食べました!お母ちゃんの焼肉のタレはホンマにおいしかった!どんなお肉でも最高級な質に変えれる魔法のタレでしたね!
高校は体育科に進学。スポーツ馬鹿もこの頃には超越していて、オリンピック選手を目指すようになっていました。バレーボールに命を懸けていた高校時代。1日もボールを触らない日は無かったです。得意のジャンピングサーブは大阪府でNo. 1の実力でした!元旦以外、練習!練習!練習の毎日でした。オリンピック選手になる為に!
ところが、2年生のある日の冬、いつものアタックの練習の時でした。助走しておもいっきり踏み込んでジャンプしてアタック。着地した瞬間...終わったと思いました...左膝に生まれて初めての激痛...立てず病院へ【半月板損傷】半月板が真っ二つに割れたのです。致命傷でした。オリンピックの夢は諦めました。
高校を卒業して飲食業界へ。毎日が運動会!500席のバドワイザーカーニバルというビアホールでのお仕事。先輩にかわいがってもらい、食事にいっぱい連れて行ってもらいました。スポーツしかやってこなかった私は初めてのミナミの夜のネオンはかなり刺激的でしたね。
毎日が充実していました。役職も社員にしていただき、店長になり、エリアマネージャーとあっという間に20年ほど経ちました。このまま毎日楽しく飲食店で仲間とお客様と戯れながら人生を送るんだと思っていたそんな時。世界が震える出来事が起こりました。
2019年12月初旬【新型コロナウイルス感染症】(COVID-19) 恐怖の毎日が始まりました...
生き方が変わり始めました。命について人生について過去や未来について初めて真剣に考えさせられました。このままではダメだと思い新しい決断することになりました。
【恩返しせなアカン!今まで自分の好きなことだけやって、何でも与えてもらって、おいしいもんいっぱい食べさせてもらって、何不自由なく生きてきて、やってもらってばっかりで恩返ししてへんやん!】
起業して恩返ししようと決めたのです。
久屋大通駅近くの韓国料理店の店長をさせて頂いていた私は、大好きだった居心地の良すぎる場所を離れる覚悟をしました。オープンから10年近くその場所で色んな思い出があり環境を変えるのは大きな変化で勇気が必要でした。しかし決めたからには出ようと決意しました。最終日、お客様とスタッフに盛大に見送られ何とも言えない気持ちになったことを忘れません。本当に本当に楽しい時間とたくさん学ばせて頂けた会社にいれて有難かったです。こんな問題児で異端児の扱いづらい私を長い間雇ってくださった社長様に深く感謝しています。お陰様で今の仕事にあの頃の経験がプラスになって助かっています。本当にお世話になりました。
退職し、大阪の実家に戻り創業の準備を始めました。感染症法や食品衛生法に労働基準法などをしっかりと学ぶことから始めました。修行しながらの受験生はまぁまぁしんどく正直妥協しかけました。そんな弱気になった時は、スタバに行ってカウンター席で勉強中の学生方々に交じり刺激を受けやり続けました。スタバの学生さん達のお陰様で調理師免許試験に合格できました!調理師免許を取得し専門的に食について話しができるようになりました。準備を始めて2年経った頃、名古屋市中村区那古野1丁目に最高の物件が出ました!即契約でした!
私の母は【韓 明心】と申します。
世界一尊敬する人の名前を店名にしました。
2023年1月6日
【韓国料理 明心館】 創業
今まで私を幸せにしてくれた母や姉その他の家族や友人、関わってくれた沢山の人たちに恩返しできる場所ができました。さぁやるでー!
日々、色々な出来事が起こります。コロナみたいな世界大恐慌もいきなり起こります。人生の今の瞬間に後悔の無い生き方をしていきたいですね。
産んでくれたことへの感謝。育ててくれたことへの感謝。生きてることへの感謝。食べれることへの感謝。働ける感謝。遊べる感謝。
人生でやりたいことはもうほぼ全部やれたので後悔は何もありません。あとは今の私が幸せにいれるようにしてくだっさた方々へ恩返しするだけです。
これが【創業における私の思い】です。
それでは皆さん、韓国料理が食べたい時、笑いたい時、声出したい時、ゆっくり落ち着きたい時、元気が出ない時、悲しいことがあった時、体の調子が悪い時は【明心館】に来ると明るい心になれて元気になって幸せな気分になれますのでお気軽にお越しください。私の元気の源の韓国料理をご用意してお待ちしております。韓国料理を通してたくさんの人を幸せにしたいです。それではお会いできるのを楽しみにしております。